日本時間3月11日、僕は春休みが始まった直後で、飛行機でメキシコに向かう途中だった。当時、アメリカに留学中で、春休みを利用してメキシコとキューバに旅に出ていた。翌朝、無事にメキシコについたということを家族に電話で知らせるために、ホステルの受付で電話を借りた。しかし、何回かけても電話がつながらず困っていたら、支配人が「なんか日本で大きな地震があったらしいけどご家族は大丈夫?」と朝刊を見せながら英語で聞いてきた。朝刊はもちろんスペイン語だったが、1面に載っている津波が沿岸部を襲う写真と、各所に見える「TOHOKU」「M9.0」「TSUNAMI」という文字を見て、東北地方でマグニチュード9.0程度の地震と津波が発生したことを悟った。
キューバに出発する前日に、やっと日本にいる家族に電話が繋がり、それを通してようやく事態を理解することができた。滞在中は、道行く人に「君は日本人?家族は大丈夫?困ってることがあったら教えて。」「日本で大きな津波が起きたらしいね。僕もここから日本の安全を毎日祈ってるよ」と声をかけもらえると同時に、フェイスブックにはたくさんのメッセージが送られていた。
たくさんの人が心配してくれたが、実際のところはスペイン語の新聞とYouTubeで得た情報は自分にとって現実味を帯びていなかった。中米からアメリカへ帰国後、アメリカの友達に日本の地理、彼らの持っていた誤解、親類の安否などにたくさんのことについて説明していたが、当時はまだ、どこか遠い世界で起きた出来事のように感じていた。海外で現地の新聞を読んでも、アメリカで友達とそのような話をしても、その感覚は解消されなかった。
日本に帰国した7月中旬には、世界の注目は世界経済の先行きについてのニュースに注がれていた。結局、震災の話は自分の中で嵐のように過ぎ去ってしまって、実態をつかめないまま不完全燃焼に終わっていたと同時に、日本人なのにこれだけ大きな事件のことを何も知らないと自分を恥ずかしく思えた。帰国後初の学期の経済学の授業で、東北地方の経済と震災の影響について考える機会があったこと、教授の後押しなどもあり、今回、やっと被災地を訪問するに至った。
実際に訪問すると、まずよく目についたのはお葬式の看板や喪服の人で、その体験は急に“自分はニュースで見た現場にいる“という現実感を与えた。実際に被災地に行くと、初めて東北に行ったにも関わらず、人影が少ないことはすぐに分かった。今回訪問したのは仙台市、名取市、陸前高田市と石巻市である。一人で道を進むにつれて、被災した建物や何もない土地が増え、恐怖感が襲ってきた。地震発生から8か月経過したが、瓦礫の撤去が終わったが、ほとんどのものはまだ放置されたままで、根本的な問題は解決の方向にも向かっていないのではないかと疑問を持った。
僕たちは、1995年に幼いながらも阪神淡路大震災を経験し、今、東北の巨大な複合災害に直面している。東北を訪問することで将来に生かすべき経験や視点を得ることができたが、それは訪問したときに出会った東北の人々がとても心温かい人であったこと、東北で出会った人と意見交換する中で異なった視点からの刺激や使命感を得たからだと考えている。もちろん、海外にいたときに日本に対して応援してくれていた人々のおかげでもある。
今回撮影した写真は、1月に東京と大阪で開かれる展覧会で使用してもらえるらしく、微力ながら何らかの形で支援できるのではないかと考えている。海外留学中に持った東北の震災に対する疑問や知らないことへの焦燥感は、現地でのLearning Experienceによって少なからず解消できた。被災者の方々のご冥福を祈るとともに、“自分たちには今何ができるのか“ということを念頭に置いてこの経験を生かしていこうと思う。
<甲南高校出身 春名成彦>
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